概 要

慶長7年(1602年)、関ヶ原の戦いの功績により伊予を与えられた加藤嘉明により築城がはじまる。加藤氏の時代には完成せず、蒲生氏を経て松平氏の時代に完成した。

城郭構造は連郭式平山城。 城跡は国の史跡に指定されている。

当初の天守は五重であったが、その後、三重に改修された。天明4年(1784年)、落雷により焼失。現在の天守は、安政元年(1854年)に再建された三代目で、連立式層塔型三重三階地下一階。天守は、本丸からさらに一段高い石垣で囲まれた本壇の上にあり、迷路のように入り組んだ門をくぐり抜けなければたどり着けない。
江戸時代以前に建造された天守が残る現存12天守の一つ、江戸時代後期に再建されたもので現存天守の中では最も新しい(落雷による焼失直後に提出した再建計画が幕府に認められていたので、江戸時代後期でも再建は可能であった)。

現存する天守、野原櫓、乾櫓、隠門続櫓など櫓5棟、戸無門、隠門、紫竹門、一ノ門など門7棟、筋鉄門東塀など塀7棟が国の重要文化財に指定されている。

再建された建造物は、小天守、北隅櫓、十間廊下、南隅櫓、太鼓櫓、筒井門、太鼓門、乾門、良門東続櫓など22棟。

別名は、勝山(標高132m)に築城したことから勝山城(かつやまじょう)、堀に金の亀がいたという伝えから金亀城(きんきじょう)。
各地の松山城と区別するため伊予松山城とも呼ばれている。


明治政府の廃城令で城門、櫓、御殿などが取り壊された。その後、地元からの申し出で本丸一帯は公園として整備された。

平成18年(2006年)、日本100名城に選定された。


写真は2015年12月9日撮影。

アクセス

愛媛県松山市丸の内
JR予讃線・松山駅~伊予鉄道市内電車10分~大街道下車~東雲口登城道~松山ロープウエー東雲口駅

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