概 要

戦国時代以前には大高坂山城(おおたかさかやまじょう)または大高坂城と呼ばれる城が築かれていた。 関ヶ原の戦いの後、慶長 6年(1601年)、掛川城から移った山内一豊が大高坂山(おおたかさかやま)の地に築いたのが高知城の始まり。
高知城は、浦戸湾に注ぐ鏡川と江ノ口川に挟まれた丘陵に位置し、東側は浦戸湾の外洋に通じ、南を流れる鏡川と北を流れる江ノ口川を堀として利用できた。一方、古来から水害が多く、万全な治水対策が求められた。


城郭構造は梯郭式平山城。城跡は国の史跡に指定されている。

創建時の天守は享保12年(1727年)の火災で焼失。現在の天守は、寛延 2年(1749年)、創建時の古い様式で再建された独立式望楼型四重六階、高欄がついた廻縁が設けられている。江戸時代以前に建造された天守が残る現存12天守の一つ。

主な遺構は、天守、本丸御殿、門、櫓、本丸、二の丸、三の丸、石垣など。 本丸の建造物が全て残る唯一の城であり、天守と本丸御殿が現存する唯一の城でもある。
江戸時代以前から現存する建造物15棟(天守、御殿、納戸蔵、黒鉄門、西多門、東多門、詰門、廊下門、追手門、天守東南矢狭間塀、天守西南矢狭間塀、黒鉄門西北矢狭間塀、黒鉄門東南矢狭間塀、追手門西南矢狭間塀、追手門東北矢狭間塀)は国の重要文化財に指定されている。

別名は、屋根瓦のグレーと白漆喰壁の白が鷹の色合いに似ていることから鷹城(たかじょう)。


明治政府の廃城令で、二の丸や三の丸の建造物は取り壊されが、天守を含め本丸周辺建造物と追手門は取り壊しを免れた(これらの建造物は昭和20年の米軍の空襲でも焼失を免れ現存している)。明治 7年(1874年)には、太政官布告第16号「府県公園地御定ノ儀伺」に基づき、城跡は高知公園として整備され一般公開された。

平成18年(2006年)、日本100名城に選定された。日本100名城スタンプは本丸御殿入り口に置かれている。


2015年12月 8日訪問
四国地方には江戸時代からの天守が高知城はじめ 4城に現存している.....明治政府の廃城令に対しどのように対応したのか、興味深いところです。

アクセス

高知県高知市丸の内
JR土讃線・高知駅~徒歩25分、あるいはJR土讃線・高知駅~路面電車・高知城前駅~徒歩5分

関連サイト

関連書籍