日本のお城 > 大垣城

概 要

大垣城は天文4年(1535年)、宮川安定がによって大垣市内を流れる水門川の流れを外堀に利用して築城されたと伝えられている。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、西軍を率いた石田三成の本拠地となった。関ヶ原の戦いで西軍が敗北すると東軍に攻囲され(大垣城の戦い)、落城。江戸時代に入り、徳川家康は譜代大名として石川康通を城主にし明治に至るまで大垣藩戸田氏の居城となった。天正13年(1586年)の天正地震で城は全壊焼失した。その後、戸田氏鉄によって本丸と二ノ丸を並べた並郭式に、その周囲を三ノ丸で囲い、更に外周は惣構としていた
本丸には北西隅に4重4階(3重4階とも)の複合式層塔型天守を上げ、3重櫓1基に2重櫓を3基、二ノ丸に月見櫓など3重櫓を4基、三ノ丸には2重櫓4基、平櫓1基などが建て並べられ、本丸に2つ、二ノ丸に1つ、三ノ丸に大手門など大小5つ、外郭に南大手門など大小7つの門が開かれていた。 

城郭構造は連郭輪郭複合式平城。城跡は大垣市の史跡に指定されている。

天守は昭和20年(1945年)の大垣空襲で焼失、現在の天守は四層四階、昭和34年(1959年)に鉄筋コンクリート造りで再建された。平成22年(2010年)には屋根瓦の葺き替えと外壁改修工事により、焼失前の外観に近くなるように外観復元された。

再建建造物は、 天守の他に、艮隅櫓(うしとらすみやぐら)が昭和34年(1959年)に鉄筋コンクリート構造で再建された。乾隅櫓(いぬいすみやぐら)は昭和41年(1966年)に鉄筋コンクリート構造で再建され、平成22年(2010年)に外観復元された。

遺構としては、本丸の石垣および水門川として外堀の一部が残る。移築建造物としては、市内の民家に本丸乾門が、市内長松町の天理教本眞愛分教会に清水御門が残る。また、鉄門は修理され各務原市鵜沼宿に展示されている。

別名は麋城(びじょう)、巨鹿城(きょろくじょう)。


明治6年(1873年)の廃城令により廃城処分となったが、天守など一部の建物は破却を免れた。明治13年に岐阜県からの公園設立の許可により、本丸を中心にした一帯は大垣公園として整備されている。
天守は艮隅櫓とともに昭和11年(1936年)に国宝(旧国宝)に指定されていたが、昭和20年(1945年)の大垣空襲により焼失してしまった。
平成29年(2017年)には続日本100名城に選定された。

アクセス

JR東海道本線・大垣駅~徒歩10分
岐阜県大垣市郭町2-53

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