豊臣秀吉が、天正11年(1583年)、戦国時代末期から安土桃山時代初期にあった石山本願寺の地に築城を開始、天正13年(1585年)に豊臣大坂城を完成させた。豊臣大坂城は慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で炎上。その後、寛永3年(1626年)、德川秀忠が豊臣大坂城の上に盛土し、石垣を積み直して徳川大坂城を完成させた。
城郭構造は平山城。城跡は国の特別史跡に指定されている。
豊臣期の初代天守は、複合式(もしくは連結式)望楼型五重六階地下二階、大坂夏の陣で炎上した。徳川期に再築された 2代目天守は、独立式層塔型五重五階地下一階、寛文 5年(1665年)の落雷により焼失した。
現在の 3代目天守は、独立式望楼型五重八階。徳川期の大坂城の天守台の上に豊臣期の初代天守をモデルに昭和 6年(1931年)に鉄骨鉄筋コンクリート造りで再建された再興天守。
おもな遺構は、大手門、千貫櫓、乾櫓、一番櫓、六番櫓、金蔵、焔硝蔵、本丸、二の丸、石垣、堀など。
江戸時代以前から現存する建造物13棟(大手門、多聞櫓、千貫櫓、乾櫓、一番櫓、六番櫓、塀3棟、金蔵、焔硝蔵、金明水井戸屋形)は国の重要文化財に指定されている。
再建整備された建造物は、本丸の正門にあたる桜門(さくらもん)。
明治新政府が樹立した慶応 4年(1868年)、本丸御殿からの出火で城内の建造物のほとんどが焼失したが、桜門は明治20年(1887年)に陸軍の手によって再建され、国の重要文化財に指定されている。
別名は、錦城または金城(きんじょう)。
表記については、明治以前のおおさかじょうは「大坂城」、それ以降のおおさかじょうは「大阪城」と表記するのが一般的。
明治政府は城内の敷地を陸軍用地に転用、広大な敷地に火砲や車両などの重兵器を生産する大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)を設けた。昭和 6年(1973年)になると、大阪市によって城跡の公園整備が「昭和天皇の即位記念事業」として進められ、大坂城公園が開園した。終戦時の米軍による空襲では多くの建物が破壊されたが再興天守は破壊を免れた。
平成18年(2006年)、日本100名城に選定された。日本100名城スタンプは天守閣 1階インフォメーションに置かれている。
2016年11月10日、2017年11月16日訪問