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城 - 歴史おさらい

お城というと石垣があって天守があるもの、と思ってしまいますが、それは織田信長による安土城築城以降の近世城郭のことです。
もともとお城というのは、敵の攻撃を防ぐために築いた防御施設で、古代の城(き)や城柵はじめ、中世の領主の居館や山城、戦国末期からの近世城郭、さらに江戸時代末期に築かれた砲台までを含み、そのような広義のお城は全国各地に4~5万ほどもあったとされています。
それらの中で、石垣があって天守があるお城らしい近世城郭の大半は、戦国末期から安土桃山時代をへて江戸時代初期にいたる半世紀ほどの間に築かれたもので、大小あわせて 400ほどが造られました。  
しかし、江戸幕府による一国一城令により170城ほどに激減、明治時代になると、廃城令が発令され、陸軍省が軍用地として残す存城処分か、大蔵省が財産として処分する廃城処分かのいずれかの処分が下され激減しました。存城処分になったお城の大半が軍用地となったことから、攻撃の標的になり、多くのお城は戦争で壊滅しました。
明治初期に天守が残されていたのは21城、そのうち熊本城は西南戦争で天守を失い、名古屋城、岡山城、和歌山城など7城は戦争で天守を失い、松前城は失火で天守を失い、天守が残されたのは12城になってしまいました。
一方、戦後になるとその文化的価値や観光資源としての価値が見直され、城郭の整備、現存天守の保存、失われた天守の復元、復興など、時代の変遷の中でお城が蘇る時代になりました。

* 印は現存天守12城

鎌倉時代(1185-1333年)

全国に勢力を伸ばした源頼朝が鎌倉に幕府を開いて、武士による政治が始まり、以後700年近く続いた。
武士の世の中にふさわしい新しい文化がおこり、「平家物語」「源平盛衰記」などの軍記物語が作られた。また、東大寺南大門の金剛力士像に見られる豪快な彫刻が作られ、浄土宗、浄土真宗、法華宗、禅宗など武士や民衆にも親しまれる新しい仏教が生まれた。
1274年(文永11年)、元(モンゴル人が中国にたてた王朝)の軍が来襲する事件があり、それがきっかけとなって鎌倉幕府の力は次第に衰えた。1333年(元弘三年)、後醍醐天皇らを中心とする勢力によって鎌倉幕府は滅ぼされた。

1192年(建久 3年)
源頼朝、鎌倉に幕府開く。
1221年(承久 3年)
承久の乱(じょうきゅうのらん)
後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。幕府が優勢となり、朝廷の権力は制限され、幕府が皇位継承などに影響力を持つようになる。
1240年(延応 2年)
備中松山城築城*
1324年(正中元年)
後醍醐天皇、側近らと倒幕計画を企てるが事前に発覚してしまう( 1度目の倒幕計画)。
1331年(元徳 3年)
後醍醐天皇、挙兵するも幕府軍に敗北する( 2度目の倒幕計画)。
1333年(正慶 2年)
楠木正成や護良親王が挙兵。足利高氏が京都で幕府軍を破り、新田義貞が鎌倉を攻め落とし、鎌倉幕府は滅亡した。

室町時代(1336-1573年)

鎌倉幕府が滅びてから織田信長によって滅ぼされるまで、京都の室町に幕府があった時代。
幕府を倒した後醍醐天皇は、再び天皇中心の政治へと舵をきった(建武の新政)が、その後60年ちかくは朝廷は南朝と北朝とにわかれ、争いが続いた(南北朝時代)。 その一方、守護大名の力が強くなり、将軍と守護大名との争いが度々おこった(応仁の乱)。その後、各地の大名が争う戦国の世が100年あまり続いた(戦国時代)。
室町時代の終わり頃には、ヨーロッパとの交流が始まり、種子島に流れついたポルトガル人が鉄砲を伝え、ついでキリスト教も伝わってきた。

1336年(建武3年)
足利尊氏、京に室町幕府を開く
1338年(建武5年)
足利尊氏、征夷大将軍に任ぜられる
1346年(貞和 2年)
姫路城築城*
1417年(応永24年)
小田原城築城
1457年(長禄元年)
太田道灌により江戸城築城
1467年(応仁元年)
応仁の乱
将軍継嗣問題、畠山・斯波の家督争い、有力守護による争いなどがからみ合い、争いは10年ほど続いた。戦場になった京都は焼け野原となった。
応仁の乱以降、各地の大名によって戦争が繰り返された室町時代の後半100年ほどは戦国時代と呼ばれている。
1469-1471年ごろ
熊本城築城
1504年(永正元年)
松本城築城*
1537年(天文 6年)
犬山城築城*
1560年(永禄 3年)
桶狭間の戦い
駿河の戦国大名の今川義元と尾張の大名である織田信長が尾張国桶狭間で戦った合戦。織田信長は、今川義元を討ち取って今川軍を退却させた。
1573年(元亀4年)
織田信長、足利義昭を京都から追放し、室町幕府は滅亡した。

安土桃山時代(1573-1603年)

織田信長と豊臣秀吉が政権を掌握していた時代。織田信長の入京から豊臣秀吉の死(1598年)まで、または関ヶ原の戦いの1600年までの約30年間。織田信長の居城安土城と豊臣秀吉の居城伏見城(桃山)にちなむ名称。

1576年(天正 5年)
丸岡城築城*
1576年(天正 5年)
織田信長により安土城築城
わが国初、地上6階地下1階の天守が築かれた。
1582年(天正10年)
本能寺の変
明知光秀が謀反を起こし、京都の本能寺にて織田信長を襲撃した事件。寝込みを襲われた織田信長は火を放ち自害した。
1582年(天正10年)
山崎の合戦
羽柴秀吉軍が摂津国と山城国の境に位置する山崎において織田信長を討った明知光秀軍と激突した戦い。
1583年(天正11年)
上田城築城
1583年(天正11年)
大坂城築城
豊臣秀吉は、天下統一を進める根拠地として大阪に織田信長の安土城より立派な城を建てた。
1590年(天正18年)
小田原合戦
豊臣秀吉が後北条氏を征伐した戦い、戦国時代を終わらせ天下統一した。
1590年(天正18年)
徳川家康、江戸城に入城。
1597年(慶長 2年)
丸亀城築城*
1598年(慶長 3年)
豊臣秀吉、死去。
1600年(天慶 5年)
関ヶ原の戦い
徳川家康を総大将とする東軍と、石田三成を中心とする西軍との戦い。東軍が西軍を撃破、徳川家康覇権を決定づけることとなった。
1601年(慶長 6年)
徳川家康による天下普請(てんかぶしん)
豊臣秀頼との武力衝突に備えて城の整備を進めた(膳所城、加納城、二条城、伏見城、江戸城、彦根城、駿府城、篠山城、丹波亀山城などの築城、拡張)。姫路城、伊賀上野城、桑名城などは家康の命令を受けた城主により大規模な拡張が行われた。
1601年(天慶 6年)
宇和島城築城*
1602年(慶長 7年)
伊予松山城築城*

江戸時代(1603-1867年)

徳川家康が征夷大将軍に任ぜられて江戸に幕府を開いてから 15代将軍慶喜の大政奉還による王政復古までの 265年間。江戸が政治の中心であった時代、徳川時代ともいう。
幕府は支配を強めるため、全国250あまりの大名を親藩、譜代、外様の三つにわけ、お互いに抑え合うようにしたり、武家諸法度を作って大名や武士を取り締まったり、参勤交代の仕組みをつくって諸大名の力を抑えた。
また、キリスト教が広まり政治の土台が揺らぐことを恐れ、外国との交流を止める鎖国をしたため、外国との貿易は衰え、世界の進歩に遅れることになった。結果的には、国内は200年あまりも太平の世が続くことになった。
一方、商業は盛んになり、豊かになった生活の中から、新しい町人の文化(歌舞伎、浮世絵、小説、徘徊、川柳など)が生まれた。
しかし、アメリカのペリーが開国を求めて浦賀にきて以来、開国と攘夷を巡って国内は乱れ、薩摩や長州などの連合軍によって幕府は倒され武家政治は終わりをつげた。

1603年(慶長 8年)
徳川家康、征夷大将軍に任ぜられ江戸に幕府を開く。江戸城を石垣づくりの城郭にした。
1603年(慶長 8年)
高知城築城*
1609年(慶長14年)
徳川家康、名古屋城旧城の拡大を命ずる。
1611年(慶長16年)
弘前城築城*
1611年(慶長16年)
松江城築城*
1614年(慶長19年)
大坂冬の陣
徳川家康、大坂城の外堀、内堀を埋める。
1615年(元和元年)
大坂夏の陣
大坂城落城、豊臣家滅亡。
1615年(元和元年)
江戸幕府、一国一城令発令
諸大名の軍事力の抑圧をおもな目的に、居城以外の城をすべて破却するよう命令、城郭は激減した。
大名を統制するための武家諸法度(ぶけしょはっと)においても、新たな築城の禁止、修理についても届け出制にするなど制限を加えた。
1616年(元和 2年)
徳川家康、死去。
1622年(元和 8年)
彦根城築城*
1637年(寛永14年)
徳川秀忠、家光によって江戸城に外濠が築かれ巨大城郭となる。
1639年(寛永16年)
南蛮(ポルトガル)船の入港を禁止し鎖国。
1665年(寛文 5年)
大坂城天守、落雷により焼失。
1853年(嘉永 6年)
ペリー来航、幕府に開国を求める。

明治時代(1868-1911年)

明治天皇が即位し治世した時代。政府は天皇を中心とした新しい国家体制を築き、江戸を東京と改め、天皇が東京に行幸した。日本での一世一元の制による最初の元号。
日本が初めて直面した日清戦争と日露戦争で勝利し、開国以来の懸案であったイギリスやアメリカなどの各国との不平等条約の改正を完了させ、名実共に日本は列強の一員となった。

1868年(明治元年)
戊辰戦争(ぼしんせんそう)
王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩、長州藩、土佐藩らの新政府軍と、旧幕府勢力が戦った日本の内戦。名称は慶応4年(明治元年)の干支が戊辰であったことから。
1871年(明治 4年)
廃藩置県、中央集権体制が確立した。
1873年(明治 6年)
明治政府、廃城令発令
太政官から陸軍省および大蔵省に発せられた文書で、陸軍省所管財産であった全国の城郭につき、陸軍省が軍用の財産として残す部分については存城処分、それ以外については大蔵省が普通財産として処分すべき廃城処分とした。一方、陸軍用地なった城郭でも主要な建造物が残されたり(姫路城、彦根城など)、廃城処分となった城郭でも例外的に廃城を免れたり(犬山城、松本城など)した。陸軍用地となった城郭は、必然的にアメリカ軍の攻撃を受けることとなった(名古屋城、広島城など)。
廃城令が、城跡が軍事施設になっていたり、戦後になると学校ができたり、遊園地がができたり、動物園ができたりした由縁となった。
1877年(明治10年)
西南戦争(せいなんせんそう)
西郷隆盛を首領とする鹿児島士族が起した大規模な反乱。陸軍大将西郷隆盛は征韓論に敗れて政府を辞していた。
1877年(明治10年)
西南戦争で現存していた熊本城天守焼失。
1879年(明治12年)
琉球処分
明治政府が琉球国を強制的に近代日本国家に組み込んだ一連の政治過程。政府は、1872年(明治5年)に琉球国を廃し琉球藩とし、1879年(明治12年)には処分官を派遣し、廃藩置県を通達し、首里城明け渡しを命じた。これによって琉球王国は滅びた。
1889年(明治22年)
大日本帝国憲法(明治憲法)施行
日本史上初めて天皇の権限(天皇大権)を明記し、立憲君主制国家確立の基礎となった憲法。憲法は、天皇を神聖不可侵とし、天皇は国家の統治権を総攬(一手に掌握)すると規定した。翌年には、帝国議会が開かれた。議会は衆議院と貴族院にわかれ、貴族院議員は天皇によって選ばれた。
1894年(明治27年)
日清戦争(にっしんせんそう)
日本と中国(当時の清国)が韓国の支配権を争った戦争。日本が勝利した。
1904年(明治37年)
日露戦争(にちろせんそう)
日本とロシアが満州(中国東北部)と朝鮮の支配権を争った戦争。日本が勝利した。
1910年(明治43年)
日韓併合(にっかんへいごう)
日露戦争を経て、朝鮮統治を進めた日本は、大韓帝国を「保護国」とする日韓保護条約を締結。1910年に日韓併合条約を結び、植民地支配を完成させた。

昭和時代(1926-1989年)

昭和天皇の在位期間の時代で、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号。
日本は国内的には立憲君主制の体裁をとり、当初の藩閥政治を脱して、1920年代には政党が内閣を構成するようになった。 しかし、その政党政治は、相次ぐ不況下で困窮する国民の不信と怒りを買い、大陸侵略による事態の打開と国家改造を志向する勢力の台頭を招く。1920年代末から独立性を強めた軍部は、1930年(昭和 5年)以降は政府の意思に反した軍事活動や戦闘を多数引き起こし、相次ぐ軍事クーデターにより、ついには政党政治を葬り去った。

1931年(昭和 6年)
満州事変(まんしゅうじへん)
日本が満州 (現中国東北地方) に侵略した戦争。日本の関東軍が奉天郊外の柳条湖で満鉄を爆破して軍事行動を起し、満州全域を占領した。
1931年(昭和 6年)
大阪城3代目天守鉄骨鉄筋コンクリート造りで復興。
1937年(昭和12年)
日中戦争(にっちゅうせんそう)
盧溝橋(ろこうきょう)事件をきっかけにした日本の中国への侵略戦争。はじめ日本は支那事変あるいは日支事変とよび、宣戦布告も行わなかったが、戦線は全中国に拡大、その後1941年には太平洋戦争に拡大した。
1941年(昭和16年)
太平洋戦争
1941年12月から1945年8月までの間、アメリカ、イギリスを中心とする連合国と日本との間で戦われた戦争、第2次世界大戦に含まれる。日本では大東亜戦争と呼ばれていた。太平洋戦争という呼称はアメリカが太平洋での戦いだったために名づけたもの。
1945年(昭和20年)
名古屋城天守、岡山城天守、和歌山城天守、大垣城天守、水戸城御三階櫓、福山城天守、アメリカ軍の空襲により焼失。
広島城天守、アメリカ軍の原爆投下により焼失。
1945年(昭和20年)
ポツダム宣言受諾、終戦。
1946年(昭和21年)
天皇人間宣言
1946年1月1日に出された詔勅の通称。その後半部分に「天皇と国民の紐帯(ちゆうたい)は神話と伝統によって生じたものではなく、また天皇を現人神(あらひとがみ)としそれを根拠に日本民族の他民族に対する優越を説く観念に基づくものでもない」として天皇の神格を否定した部分があるので、「人間宣言」と呼ばれている。
1949年(昭和24年)
現存していた松前城天守、失火で焼失。