概 要

駿府城は、天正17年(1589年)、駿河を領国とした徳川家康が今川氏の居館があったとされる場所に築城したのがはじまりとされている(駿府は徳川家康が幼少のとき今川氏の人質になっていたところ)。
その後、慶長12年(1607年)、将軍を退いた徳川家康は天下普請で三重の堀と六重七階の天守を持つ城に拡張、大修築した。駿府は江戸と並ぶ政治の中心地として重要な役割を果たした。

平成28年(2016年)からの発掘調査で、将軍を退いた徳川家康が築いた慶長期の天守台(南北68m、東西61m)が見つかった。さらにその天守台と一部重なった位置から別の天守台(南北37m、東西33m)が見つかり、天守台の石垣が野面積みであったことや周辺から金箔瓦が出土したことから豊臣秀吉が徳川家康を関東に国替えした後、家臣・中村一氏に築かせた天正期の天守台とみられている。天正期の天守台と一部重なる状態で慶長期の天守台が築かれたと考えられる。

城郭構造は輪郭式平山城。

天守は、慶長12年(1607年)、六重七階の天守が建てられたが焼失、直後に再建されたが寛永12年(1635年)に再度焼失、以降は再建されていない。

遺構としては、中堀と内堀の一部は江戸期の姿を残している。

再建された建造物は、平成元年(1989年)に巽櫓(たつみやぐら)、平成8年(1996年)に東御門と続多聞櫓、平成26年(2014年)に坤櫓(ひつじさるやぐら)が再建された。

別名は府中城、静岡城など。


明治2年(1869年)、版籍奉還により駿府城は国の所有になり、大手門をはじめとする建物は売却されたり取り壊されたりした。明治6年(1873年)の廃城令では軍用地として残す存城処分となり、建物や城門などはさらに取り壊された。
城跡は、明治24年(1891年)に静岡市に払い下げられたが、歩兵第34連隊の誘致にともない天守台が取り壊され本丸堀は埋められた。戦後の昭和24年(1949年)に再び静岡市に払い下げられ、駿府城公園として整備された。

平成18年(2006年)、日本100名城に選定された。


写真は2017年10月26日撮影。

アクセス

静岡県静岡市葵区駿府城公園1-1
JR線・静岡駅~徒歩10分

関連サイト

関連書籍