首里王朝と並ぶ勢力をほこった按司・阿麻和利(あまわり)の居城跡で、築城は12~13世紀と伝えられている。沖縄の世界遺産に登録されているグスクとしては最も古い城跡。写真は四の曲輪から撮影した勝連城跡の様子、四の曲輪から三の曲輪の城門跡へと登り、三の曲輪、二の曲輪、一の曲輪と登ることができる。
手前の広場が三の曲輪、儀式などを行う広場だったと考えられている。ここからはエメラルドグリーンの中城湾が一望できる。この上の二の曲輪には東西 14.5m、南北 17m規模の舎殿があったとされ、その遺構は地下に埋め戻して保存されている。
三山時代の北山(ほくさん)を治めた王の居城跡。9つの城郭をもつ大規模な城で、13世紀ごろ造られたと伝えられている。1416年に中山(ちゅうさん)に征服され、1609年には薩摩藩に攻撃され建物は焼失した。全長 1500m余りになる城壁は、自然の石が地形にあわせて美しい曲線を描いて積まれている。
主郭から見下ろす位置にある志慶真門廓(シジマジョウかく)、志慶真川に沿って城壁が築かれている。城主に仕えた身近な人々が住んでいた伝えられ、発掘調査によって4つの住居跡が確認されている。
中山の按司(あじ=武将)・護差丸が1420年に築いた城跡。北山が滅びた後もその旧勢力を見張る目的で造営されていた。沖縄にある 300余の城なかで最も美しい城とされている。写真は、琉球石灰岩を互いに削りながら曲線を描くように積まれた城壁と沖縄で最古といわれているアーチ型門。
一の郭には舎殿跡が見つかり、現在はその建物の大きさが分かるように礎石が置かれている。沖縄戦で日本軍の高射砲台が置かれたことから、米軍の攻撃で城壁の一部が破壊された。戦後は米軍のミサイルレーダーが設置されていた。ここからは東シナ海を望むことができる。
沖縄のグスクの中では、最も昔の姿を残しているグスク。座喜味城主だった護佐丸(ごさまる)が国王から命じられ改修、増築した城跡。首里王朝に対抗していた勝連城主の阿麻和利(あまわり)を牽制するために造られたと伝えられている。写真は整然と積まれた美しい二の郭の石垣、角部には、上向きに飛び出した丸みを帯びた隅頭石(すみがしらいし)が設けられている。
二の郭から一の郭への城門、琉球を代表するアーチ型門(拱門=きょうもん)になっている。奥の一の郭には、かつては正殿があり、明治時代になってからは中城村役場に使用されていたが、沖縄戦で焼失した。
正殿のいたるところに国王の象徴とされるる龍が描かれていたり、刻み込まれている。朱色の円柱には金色の龍が阿形と吽形の対になって描かれている。ハの字に開いている琉球独自の石階段の両側には大龍柱の彫刻が、その奥には小龍柱がの彫刻が、いずれも阿形と吽形の一対になって向かい合っている。
正面玄関の左右に飾られている龍の彫刻、ここの龍の爪は 4本。もともとの中国の龍の爪は 5本で、 4本にしたのは中国皇帝に配慮だとされている。正殿内には 4本爪の龍が33匹いる。
下庫理(しちゃぐい)と呼ばれる正殿一階の御差床、国王自ら政務を行ったり、儀式を執り行った場所。ここにも龍の装飾が多く施されている。背後にある専用階段で二階の玉座と行き来できるようになっている。
大庫理(うふぐい)と呼ばれる正殿二階の御差床、王妃や身分の高い女官たちが使用していた場所。国王の玉座があり、さまざまな儀式や祝宴が行われていた。上部には、中国皇帝から送られた書が扁額にして掛けられている。中山世土(ちゅうざんせいど)には「琉球は中山(琉球国王)が代々収める土地である」との意がある。
写真左から、正殿、北殿、奉神門、広福門などが並んでいる。手前は中国からの冊封使(さっぽうし)をもてなした龍潭(りゅうたん)。令和元年(2019年)の火災で、正殿、北殿、南殿は全焼してしまった。
首里城の石垣は、琉球石灰岩で地形に合わせて積まれ、美しい曲線を描いている。奥に見えるのは久慶門(きゅうけいもん)、外廓の北側にある門で、石造の門の上に木造瓦葺きの櫓がのっている。
正殿のある御庭(うなー)へ入る奉神門(ほうしんんもん)、「神をうやまう門」という意味がある。3つの門があり、中央は国王や中国からの冊封使など身分の高い人だけが通れる門で、それ以外の役人は両側の門から入城した。令和元年(2019年)の火災では、奉神門は全焼はまぬかれたものの半焼してしまった。
正殿は、木造二層三階、赤瓦葺き入母屋造り、中央正面には豪華な唐破風(からはふ=優美な曲線状の破風、唐とつくが日本の建築技法)が備わっている。中国の宮廷建築と日本の建築様式が取り入れられ、各部の装飾には国王の象徴である龍が多用されている。令和元年(2019年)の火災で全焼してしまった。