備中有漢郷の地頭となった秋葉三郎重信が仁治元年(1240年)に築城したのが始まり、その後、毛利氏の城となった。関ヶ原の戦いの後は、徳川幕府が城番(じょうばん)を置き支配の拠点にした。小堀正次の修築を経て、水谷勝宗による天和年間(1681年~1683年)の大修築で天守が建造されるなど近世城郭に整えられた。
城のある臥牛山(がぎゅうざん)は、 中国山地と瀬戸内海とを結ぶ交通の要衝を見下ろす場所にあり、毛利氏などの城塞として機能していた。日本三大山城の一つに数えられている。
城郭構造は連郭式山城。城跡は国の史跡に指定されている。
現在の天守は複合式望楼型二重二階。江戸時代以前に建造された天守が残る現存12天守の一つ。現存天守12城の中で山城の形態をとるのは備中松山城だけなので「天守の残る唯一の山城」になる。
主な遺構は、天守、本丸二重櫓、三の平櫓東土塀、本丸、二の丸、三の丸、石垣など。
江戸時代以前から現存する天守、本丸二重櫓、三の平櫓東土塀は国の重要文化財に指定されている。
再建された建造物は、平成 6年(1994年)からの復元整備で整備された本丸南御門、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、六の平櫓、土塀など。
別名は、立地している地名から高梁城(たかはしじょう)。
愛媛県にある松山城などと同名なので、備中松山城(びっちゅうまつやまじょう)と呼ばれている。
明治政府の廃城令で商家に売却されたが、不便な場所にあったので解体されずに放置されていた。昭和 5年(1930年)、高梁中学校教諭信野友春が山城を調査し詳細な記録を出版、修復の機運が高まり、昭和14年(1939年)に高梁町の予算で天守と土塀が改修された。改修にあたっては、地元の小中学生らが約 2万枚もの瓦を担いで本丸まで運んだ。
標高430mの臥牛山に建つ備中松山城は、秋から春にかけての早朝には雲海が一面に広がり、条件によっては雲海に浮かぶ備中松山城を見ることができる。
平成18年(2006年)、日本100名城に選定された。日本100名城スタンプは天守入口(備中松山城券売所)に置かれている。
2015年8月4日訪問
不便な場所にあったので解体されずに放置されていた天守、「改修にあたっては、地元の小中学生らが約 2万枚もの瓦を担いで本丸まで運んだ」という話を聞いて、胸が熱くなった。郷土愛が松山城を守った!