富岡製糸場・構内

東西の繭倉庫と繰糸場がコの字状に配置されている構内、その中央に煙突が建てられている。当時は電気がなく、石炭を燃やして蒸気機関を動かして動力源にしていた。写真の煙突は、昭和14年に再建された鉄筋コンクリート製の4代目、初代は鉄製、2代目と3代目はレンガ製だった。


富岡製糸場・東繭倉庫

世界遺産に登録され見学者でにぎわう富岡製糸場。奥の建物は長さ104.4mある総2階建の東繭倉庫(ひがしまゆそうこ)、南側には通路となるベランダが付けられている。


富岡製糸場・女工館

フランス式器機操糸技術を工女に教えるフランス人女性教師の宿舎として建造された女工館。1階2階とも東南西の3方にベランダが巡らされたコロニアル様式に洋風住宅になっている。


富岡製糸場・ブリュナ館

首長のポール・ブリュナとその家族のための宿舎として建造された首長館(ブリュナ館)。富岡製糸場には、ブリュナ館を含め東西の繭倉庫、製糸場、検査人館、蒸気釜所、女工館の7棟が木骨レンガで建てられている


富岡製糸場・通用門

東繭倉庫に設けられたアーチ部、建造した年である明治5年が刻まれた要石(キーストーン)がはめられている。建造当時は、この通用門を抜けると正面に西繭倉庫が目に入ってきたというから、圧倒的な規模が実感できたと思われる。


富岡製糸場・飾り窓

通用門アーチ部の左右に設けられている和風の飾り窓、アーチ部とともに建造直後に改修して造られたもの。


富岡製糸場・木骨レンガ造

木骨レンガ造の土台部分、建物外周に3.6m中心間隔で約60㎝角の基礎石を配置し、その上に約30㎝角の柱を建てている。基礎石の間には4段積の布石を巡らせ壁の基礎にしている。レンガ壁はフランス積みで積まれている。レンガ壁が接する柱面には1.5cmほどの溝を掘りレンガを固定させている。


富岡製糸場・東繭倉庫2階

1階の基礎から2階の棟木(むなぎ)まで巨大な通し柱が通っている東繭倉庫2階。屋根を支える構造は、和洋建築様式が融合した変形傘型トラス構造と呼ばれる構造になっている。


富岡製糸場・トラス構造

繰糸場の屋根をささえる西洋技術のトラス構造、部材を三角形に結合する構造にすることで、柱のない広い作業空間を生み出している。


富岡製糸場・繰糸場内部

繰糸場内部、繭を運ぶコンベアや作業指示板などが、当時のまま残され、昭和62年(1987年)の操業終了時の様子がうかがえる。


富岡製糸場・自動繰糸機

明治5年のフランス式繰糸機から115年間、常に最新式繰糸機が導入され稼働してきた。写真のは昭和41年(1966年)から導入された日産HR型自動繰糸機、同型機は碓井製糸農業協同組合の工場で現在も稼働している。


富岡製糸場・鉄水槽

製糸場で使う大量の水を一時的に蓄えておく水槽、創業当初はレンガ造りだったが漏水のため鉄製の水槽に改められた。直径15m、深さは最深部で2.4m、貯水量は400トン。明治8年、横浜製作所で製造されたもの。


田島弥平旧宅・桑場

田島弥平は優良な蚕種(さんしゅ=蚕の卵)を生産する養蚕技術「清涼育(せいりょういく)」を開発、高山社による「清温育(せいおんいく)」が普及するまで大きな影響を与えた。写真は田島弥平旧宅に現存する桑場(くわば)。


高山社跡・長屋門

高山社跡には、明治24年(1881年)に建てられ分教場として利用されてきた母屋兼蚕室、江戸時代末期から明治時代前半に建てられた長屋門(ながやもん)や桑貯蔵庫などが現存している。


高山社跡・蚕室内部

高山潮五郎によって開発された「清温育(せいおんいく)」、換気を重視した「清涼育(せいりょういく)」と蚕室を暖めて飼育する「温暖育(おんだんいく)」の双方の長所を取り入れた養蚕方法。その蚕室は開口部が広く、階下には室内を暖める囲炉裏が設けらている。


高山社跡・蚕室内部

高山社跡は、高山社本社が藤岡町(現藤岡市)に移転した後は、養蚕の実習を行う分教場としてとして利用されてきた。写真は当時のままの蚕室内部、養蚕の棚が並べられ、分教場の名残がうかがえる。


富岡製糸場・構内


富岡製糸場・東繭倉庫


富岡製糸場・女工館


富岡製糸場・ブリューナ館


富岡製糸場・通用門


富岡製糸場・飾り窓


富岡製糸場・木骨レンガ造


富岡製糸場・東繭倉庫2階


富岡製糸場・トラス構造


富岡製糸場・繰糸場内部


富岡製糸場・自動繰糸機


富岡製糸場・鉄水槽


田島弥平旧宅・桑場


高山社跡・長屋門


高山社跡・蚕室内部


高山社跡・蚕室内部