ホーム > 大和市の名所・伝統文化・歴史 > 大和市7万年の歴史
大和市域のある相模野台地が誕生したのは約7万年前、人類が石器を使って原始的な生活をはじめたのは富士山や箱根山が噴火していた約3万年前のことす。ここでは、その7万年の歴史を年表にまとめ、現存している遺跡・史跡はできるだけ写真で見れるようにしてみました。
人類の誕生は約400万年前、新人(ホモサピエンス)の誕生は約4万年前。この時代は氷河期で、気温は年平均で7~8℃低かったといわれている。
大和市域には、東側を流れる境川と西側を流れる引地川にそって遺跡が点在している。市域における最古の人類の足跡は、3万5000年前の旧石器時代の遺跡で確認されている。月見野遺跡群上野遺跡第1地点からは、1万数千年にわたる氷期を生き抜いた旧石器時代の人々の狩猟採集生活の痕跡が発見されている。市域は旧石器時代遺跡の宝庫であり発掘された石器類は質、量ともに高い評価を得ている。
この時代の遺跡は、神奈川県域では300ヶ所以上が確認され、大和市域では境川、目黒川(境川の支流)、引地川の流域で100ヶ所ほどが確認されている。
縄文時代になると気候が温暖し、土器を使い竪穴式住居を作って定住するようになった。月見野遺跡群上野遺跡第1地点からは日本最古級の土器片や隆線文土器が出土している。上草柳第3地点遺跡からは引地川水源地付近で生活していた縄文時代中期のムラが発見されている。また浅間神社があった所からは市内最古の住居跡(縄文時代早期の竪穴住居跡)が発見されている。
大和市域では、草創期から後期にかけての遺跡は発見されているが、晩期の遺跡はほとんど発見されていない(富士山の噴火による火山灰の影響や寒冷化、乱獲による食糧難によるものと考えられている)。
弥生文化が広がり生産力が向上すると、支配者としての豪族が誕生し、権力の象徴としてのお墓(古墳)が作られるようになった。
大和市域の古墳の多くは、古墳時代後半から奈良時代にかけて作られた横穴墓で、台地の斜面や丘陵地の中腹に横穴を掘って作られた。浅間神社西側横穴墳群からは武具や装飾品などの副葬品が人骨とともに出土している。同時代のムラと考えられる下鶴間甲第1号遺跡とあわせ当時の様子を伺うことができる。
深見神社が創建されたと伝えられている。
奈良時代になると、神奈川県域も大和朝廷の律令制度に組み込まれた。相模の国には8郡が設置され、国には国司、郡には郡司が置かれた。国の役所にあたるところが国府と呼ばれ、相模の最初の国府は海老名にあったと考えられている(相模国分寺と相模国分尼寺が建立されている)。
大和市域は相模国高座郡深見郷に属し、現在の深見神社付近が中心だったと考えられている(高座郡には13郷あり、1郷は50戸で租税や兵役にしたがう単位になっていた)。
大和市域の農民の住居は平安時代になってもかやぶきの竪穴式住居で、上野遺跡第1地点からは平安時代のムラが出土し、多くの竪穴住居跡が発掘されている。
源頼朝は、1180年(治承4年)伊豆で挙兵し平氏を滅ぼし、1192年(建久3年)鎌倉に幕府を築き武家社会を確立した。
大和市域南部は三井寺の支院・円満院が支配する「渋谷荘」があり、領主は渋谷荘司重国。重国は長後に館を構え、後に高座郡西方に勢力を伸ばし早川(綾瀬市)に城を築き本拠地にした。当時の武士は、所領を広げるため未開の原野を開拓しその地名を名字にし先祖伝来の土地としていた。
南北朝時代を中心に13世紀から16世紀にかけて板碑(いたび=死者を供養するための石で作られた板状の碑)が埼玉県の荒川流域を中心に全国的に造立された。
大和市域では境川流域に集中して27基が発見されている。市内最古の板碑は、1324年(元享4年)、上和田にある内田稲荷社に造立されていたものと伝えられている。
室町時代の大和市域は足利氏の領地となり、1352年(天正7年)には南宗継に和田郷、深見郷の地頭職が与えられた。
戦国時代は小田原北条氏(後北条氏)の支配するところとなった。小田原北条氏は5代100年にわたって栄えたが豊臣秀吉の滅ぼされるまでは小田原城を中心に関東地方を支配した。
1505年(永正2年)、保田筑後守をはじめ田辺因幡守、広田刑部之助、斎藤民部、小林大玄、山下半哉、駒井文太夫、広瀬藤八、市川源兵衛が次々と引地川流域に入植し開拓した。
大和市域には中世の城跡として鶴間城跡、深見城址、篠山城跡、和田城跡があり、当時の様子をよく残しているのは深見城址で16世紀戦国時代の築城と考えられている。
1590年(天正18年)からは徳川家康が江戸城に入り、大和市域は徳川氏の領地になった。
江戸時代の大和市域は江戸から近いことから、幕府の直轄地や旗本領とされた。領主は検地帳に基づき村の年貢高を決め、村では名主や村役人が村に課せられた年貢を農民に割り当て年貢を徴収し領主に納めた。江戸時代初期の大和市域は下鶴間村、深見村、福田村、上和田村、下和田村の5か村であった。
江戸幕府は江戸を中心にして5街道を設けたが、それ以外の主だった街道を「脇往還」と呼び、大和市域には八王子道、中原街道、矢倉沢街道が通っていた。
矢倉沢街道は江戸の青山を起点にして長津田~下鶴間~厚木~伊勢原~矢倉沢を経て駿河国(静岡県)に通じている(庶民の大山参詣に利用されたことから「大山街道」とも言われている)。下鶴間村は八王子道と矢倉街道が交差する地であったことから宿場(鶴間宿)として栄えた。
江戸時代後期・文政年間の大和市域の戸数は646戸と記されている。
1871年(明治4年)の廃藩置県により、旧藩領を基準に県が設置された(大和市域は、当初は小田原県だったがその後神奈川県に編入された)。1872年(明治5年)には学制が制定され公立学校が開校した。
1873年(明治6年)には徴兵令が発布され、大和市域からも西南戦争、日清戦争、日露戦争へ204名以上が従軍した(戦没者は36名)。
1888年(明治22年)には町村制が施行され大和市域の7村は合併し鶴見村と渋谷村となった。
大正時代の大和村の重要物産は、大小裸麦米、粟、甘藷、馬鈴薯、木炭などであった。
1923年(大正12年)9月1日、相模湾を震源地とするマグニチュード7.9 の大地震(関東大震災)が発生、大和市域では南部の渋谷村に集中し家屋全壊363戸、半壊533戸、死者21名に達した。
1937年(昭和12年)、東京市谷にあった陸軍士官学校が座間村に移転、大和市域にも大規模な軍事施設が作られた。大和村、座間村、新磯村、麻溝村、上溝村、大野村、相原村、大沢村、田奈村を合併し一大軍都を作ろうとしたが大和村は合併に反対した(他の8村は合併して相模原村となった)。
1941年(昭和16年)には、海軍が帝都・東京の防衛基地として厚木飛行場の建設を決定、1943年(昭和18年)には戦闘部隊である厚木海軍航空隊が配置された。
1941年(昭和16年)、中国に加えアメリカ、イギリスとの無謀な戦争に突入、国民は苦しい耐乏生活が強いられた。生活物資の不足はいうまでもなく、寺院の鐘や家庭の鍋釜などが砲弾などの武器に加工するため供出させられた(下和田左馬神社の梵鐘)。日中戦争と太平洋戦争での戦没者は大和町で510名、渋谷村で213名になった。
1945年(昭和20年)敗戦、占領軍の民主化政策により民主国家の枠組みが確立された。1947年(昭和22年)には、公選による初の町長選挙と町議会議員選挙が実施され、大和市域に3校の小学校、2校の中学校が設置され6・3制の新学制が実施された。農地改革では1ha以上の土地の所有が禁止されたことから、戦前28%だった自作農は戦後は58%になった。