安土城は、織田信長が武田勝頼を長篠の合戦で打ち破った翌年、天正4年(1576年)から築城が始まり、 3年の歳月をかけて天守が完成、信長が移り住んだ。その 3年後本能寺の変の直後、明智光秀の手に渡り、光秀が羽柴秀吉に破れた後、天主や本丸など中枢部の建造物はすべて焼失、その後廃城となった。ここで培われた築城技術は安土桃山時代から江戸時代初期にかけて相次いで築かれた近世城郭の模範となった。
織田信長が城内に建てた摠見寺(そうけんじ)は、嘉永7年(1854年)の火災で伽藍の大半が焼失したが、仁王門と三重塔だけは類焼を免れ現存している。本堂焼失後、伝徳川家康邸跡に仮本堂を建て、菩提を弔いながら城跡を守っている。城内に寺院があるのは安土城だけ、安土城址の全域は摠見寺の所有地。
城郭構造は山城。城跡は国の特別史跡に指定されている。
天主(安土城は天主と記す)は望楼型五重七階地下一階。本能寺の変の直後、焼失した。
わが国初の本格的な天守で、各層は朱色、青色、あるいは白色、そして最上層は金色だったと伝えられている。
主な遺構は、天主台、虎口跡、石塁、石垣など。
江戸時代以前から現存する摠見寺の仁王門、三重塔は国の重要文化財に指定されている。
再建整備された建造物は、大手道(おおてみち)、城跡南面石塁など。
大手道は、大手門があったとされる所から主郭部に向かう約180m、幅は両側に敷石側溝と石塁を備えた約 9m、が再建整備されている。城跡南面は、大手門があったとされる所の東側と西側に石塁と東虎口、枡形虎口、平入虎口などが再建整備されている。
大正 7年(1918年)、 安土城保存を目指して「安土保勝会」が設立された。
昭和15~16年(1940~1941年)に天守跡と本丸跡の発掘調査と整備が行われ、昭和35~50年(1960~1975年)には主郭部の石垣修理が行われ、昭和57~58年(1982~1983年)には信長 400回忌にあわせて城跡南面の平面整備が行われた。
そして平成元年(1989年)からは「特別史跡安土城跡調査整備事業」が20年計画で行われている。
平成18年(2006年)、日本100名城に選定された。日本100名城スタンプは安土城天主信長の館、安土城郭資料館、安土城跡信長廟前に置かれている。
2017年11月15日訪問
まぼろしの天守に憧れて、発掘調査で蘇った安土城跡に登って来ました。大手道に圧倒され、そこから見えたという天主に思いを馳せ、信長は壮大なことを考えていたことがわかりました。