南北朝時代、蘆名直盛(あしななおもり)が小田垣の館(東黒川館)という館を造ったのが若松城のはじまり。
その後、黒川城に入った蒲生氏郷(がもううじさと)が、文禄元年(1592年)より近世城郭に改修、城下町を整備し地名を黒川から若松に改めた。
文禄2年(1593年)、望楼型七重の天守が竣工し、鶴ヶ城と改められた。
城郭構造は梯郭式平山城。城跡は国の史跡に指定されている。
初代天守は、文禄2年(1593年)、望楼型七重の天守が竣工。
二代目天守は、慶長16年(1611年)、会津地震により倒壊した天守を層塔型五重五階地下二階に組みなおされた。
現在の天守は、昭和40年(1965年)、層塔型五重五階鉄筋コンクリート造りで再興された。
再建された建造物は、
天守、鉄門(くろがねもん)、天守と鉄門を結ぶ渡櫓(わたりやぐら)が昭和40年(1965年)に再興された。南走長屋(みなみはしりながや)、千飯櫓(ほしいやぐら)が平成13年(2001年)に木造で再建された。
天守の屋根は平成23年(2011年)、幕末時代の赤瓦(あかがわら)に葺き替えられた。
別名は鶴ヶ城(つるがじょう)、若松城、黒川城。
1868年(明治元年)、薩摩藩、長州藩、土佐藩らの新政府軍と旧幕府勢力が戦った戊辰戦争において、会津藩は旧幕府軍として抵抗したが、最後には降伏することになった。悲劇で知られる白虎隊や新選組など、多くの英雄が活躍し、命を落とした。
明治6年(1873年)の廃城令で軍用地として残す存城処分となり、天守をはじめとする建造物は総て解体された。その後、城跡の一部が旧藩主・松平家に払い下げられ、若松市に譲渡された。
平成18年(2006年)、日本100名城に選定された。
写真は2017年1月10日、2019年5月25日撮影。