正保 2年(1645年)、常陸国笠間から転封された浅野長直(あさのながなお)が、三角州の先端という要害の地(戦いで重要な地)にあった陣屋を、慶安元年(1648年)から13年を費やして近世城郭へと整備した。築城に当たっては甲州流軍学と山鹿流軍学を取り入れ、折れを多用した縄張りが特徴的。本丸、ニノ丸、三ノ丸のすべての郭が残された貴重な近世城郭遺構である。
本丸には藩邸や本丸庭園、天守台が、ニノ丸には大石頼母良重の屋敷やニノ丸庭園、遊水池、米蔵、馬場などがあった。三ノ丸には大石内蔵助良雄をはじめとした重臣たちの屋敷が配され、城と熊見川との間には藩の米蔵と船入が備えられていた。
赤穂義士=元禄14年(1701年)、浅野内匠頭長矩が江戸城松の廊下で吉良上野介に遺恨をもって斬りつけ、浅野内匠頭はその日のうちに切腹させられた。翌年12月14日、浅野家の筆頭家老であった大石内蔵助はじめ47人の家来たちは、吉良上野介を討ち切腹に処せられた。自らの命を捨て主君への忠誠を果たしたことから、赤穂義士の話として全国的に有名になった。
城郭構造は変形輪郭式海岸平城。城跡は国の史跡に、本丸庭園と二の丸庭園は国の名勝に指定されている。
天守は、天守台を築いたものの幕府の許可が下りず建てられなかった。 城内には12棟の城門と10棟の隅櫓が築かれていた。四隅には巽櫓、坤櫓、乾櫓、艮櫓が建てられ、坤櫓が天守の代用になっていた。
主な遺構は、本丸、二の丸、三の丸、天守台、石垣、堀など。
江戸時代以前から現存する建物としては、大石良雄宅跡長屋門、近藤源八宅跡長屋門が残されている。
再建整備された建造物は、昭和30年(1955年)に復元された大手門、大手隅櫓、平成 8年(1996年)に復元された本丸門など。
別名は加里屋城(かりやじょう)。
明治政府の廃城令で廃城となり、建物は取り壊され石垣と堀の一部のみが残された。土地の大部分は民間へ払い下げられて田畑や宅地に転用された。
平成14年(2002年)、本丸庭園と二の丸庭園が「旧赤穂城庭園」として国の名勝に指定された。
平成18年(2006年)、日本100名城に選定された。日本100名城スタンプは本丸門(櫓門)に置かれている。
2025年12月2日訪問
赤穂浪士討ち入りの日(12月14日の)を前に訪問してみました。駅前からお城まで「赤穂義士まつり」のぼり旗がなびいていて、町全体の盛り上がりが感じられました。ただ、歴史博物館に入ってみましたら、赤穂は良質な塩の生産と北前船の寄港地としても繫栄したとの説明があり、赤穂浪士だけの町ではなかったということがわかりました。