慶長 4年(1509年)、松浦鎮信(まつらしげのぶ)は平戸瀬戸に囲まれた亀岡に日之嶽城(ひのたけじょう)を築いたが、幕府の改易を恐れ、慶長18年(1613年)に自らの城を焼き捨てた。
元禄16年(1703年)になって藩主が寺社奉行に抜擢されたのを機に、新規築城を幕府に願い出、享保 3年(1718年)に松浦棟(まつらたかし)が日之嶽城跡に平戸城を築いた。 天守は建てず二の丸の三重の乾櫓をその代用とし、 海岸に面した山麓部分には海城ならではの船着き場が築かれ、外郭ラインには山鹿流軍学(やまがりゅうぐんがく)に基づく折れや曲輪が施されている。
城郭構造は梯郭式平山城。
天守は建てられず、三重の乾櫓が代用天守となっていた。
現在の天守は複合式層塔型三重五階、昭和37年(1962年)に鉄筋コンクリート造で再興された模擬天守。
現存建造物は、北虎口門と狸櫓の 2棟。
遺構としては、櫓、門、石垣など
再建造物は、見奏櫓、乾櫓、地蔵坂櫓、懐柔櫓、模擬天守など。
別名は亀岡城(かめおかじょう)、亀甲城(きっこうじょう)、日之嶽城(ひのえだけじょう)。
明治 6年(1873年)、明治政府の廃城令により廃城となり、現存する狸櫓と北虎口門以外の建物はすべて解体された。
昭和37年(1962年)、天守は鉄筋コンクリート造で再興され、見奏櫓、懐柔櫓、乾櫓、地蔵坂櫓などが再建された。懐柔櫓は、日本初の常設宿泊施設「城泊」として宿泊可能な施設になっている。
現在、城跡は亀岡神社や亀岡公園となり一般開放されている。
平成18年(2006年)、日本100名城に選定された。
写真は 2023年12月21日 撮影