毛利輝元が太田川河口デルタ地帯に築いた吉田郡山城(平城)を「最も広い島地」である五箇村(あるいは五ヶ村・佐東五ヶ)に築城することに決め、 現在の広島の平野部に近世城郭として、天正17年(1589年)、築城。
城郭構造は輪郭式平城。城跡は国の史跡に指定されている。
初代天守は、大天守から渡櫓で南小天守と東小天守を連結した複合連結式望楼型五重五階とされているが建造時期、構造の詳細は不明。
黒漆塗りの下見板が張られた壁面は豊臣秀吉の大坂城天守を模したともいわれ、屋根には金箔押の軒瓦や鬼瓦(金箔瓦)が葺かれていた。
現在の天守は、昭和33年(1958年)、鉄筋コンクリート造りで望楼型五重五階の天守として復興された(外観は復元)。
再建建造物は、平成元年~ 6年(1989年~1994年)にかけて再建された御門橋、表御門、平櫓、多聞櫓、太鼓櫓など。
別名は鯉城(りじょう)、在間城(ざいまじょう)、当麻城(たいまじょう)。
明治 4年(1871年)の廃藩置県により藩政体制は終り、本丸に陸軍の部隊が置かれた。明治 6年(1873年)の廃城令以降は、本格的に軍の機能が拡大された。明治27年(1894年)には日清戦争の戦争指揮のため、大日本帝国軍の最高統帥機関である広島大本営が設置された。
昭和20年(1945年)までは天守を含め城郭建造物は現存していたが、米軍の原爆投下によって全てが倒壊、焼失した。
昭和28年(1953年)、城跡が国の史跡に指定されると天守再建の機運が高まり、昭和33年(1958年)の広島復興大博覧会にむけ天守を再建させることなった。
平成18年(2006年)、日本100名城に選定された。
写真は2017年4月13日撮影。