建久 9年(1198年)、人吉荘の地頭として着任した相原長頼の築城と伝えられている。 山城としての本格的な築城は、文明 2年(1470年)ごろ12代当主相原為続。 天正17年(1589年)に相原長毎が大改修した。
慶長 6年(1601年)本丸、二の丸などの詰の城部分や、御館部分を竣工。寛永年間(1624年~1644年)に石垣が完成。寛永16年(1639年)相良頼寛によって近世の城郭が完成した。
人吉城は、日本三大急流の一つといわれる球磨川と、その支流の胸川を天然の堀とし、多くの船着き場を設け水運をうまく活用した。
城郭構造は梯郭式平山城。城跡は国の史跡に指定されている。
天守は築かれず、本丸に護摩堂があったとされている。
遺構としては、石垣、土塀、井戸を備えた井戸を備えた地下遺構など。
1862年(文久2)の大火の後、ヨーロッパの築城技術である槹出工法(はねだしこうほう)を応用した「武者返し」と呼ばれる独特の石垣が残されている。
再建建造物としては、平成元年(1989年)に隅櫓が、平成5年(1993年)に大手門脇多聞櫓と続塀が再建された。 平成17年(2005年)には人吉城歴史館が開館、 全国的に例のない井戸のある地下遺構(大井戸遺構)が保存されている。
別名は、球麻城、求磨城、築城の際三日月型の模様の入った石が出土したことから繊月城(せんげつじょう)、三日月城。
明治6年(1873年)の廃城令で城内の建物は払い下げられ石垣だけが残された。明治10年(1877年)の西南戦争ですべての建物が焼失した。平成17(2005年)に旧相良清兵衛屋敷内に人吉城歴史館が開館。現在、城跡は「人吉城公園」として整備され一般公開されている。
平成18年(2006年)、日本100名城に選定された。
写真は2023年12月23日 撮影。