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概 要

関ヶ原の戦いの後、山陽道の東をかためる要衝に米子城から岩国に封じられた毛利元就の孫にあたる吉川広家によって、慶長13年(1608年)、 麓には平時の居館(御土居)が、横山山上には戦時のためのお城が築かれた。居館と城下は錦川に架けられた錦帯橋で結ばれ、城下町は錦帯橋の道筋を基準に整備された。
山上の城郭部分は、尾根沿いに長さ180メートル、横に54〜108メートルの規模(石垣の高さ5.4メートル)。本丸を中心に南西に二の丸、北東に北の丸が配され、総石垣、要所に櫓が築かれた厳重な造りであった。
岩国藩は公的には、幕末まで藩として認められていなかったが、当初より行政・徴税・治安を独自に行っており、事実上の自治権を有していた。麓の居館は岩国領の陣屋として明治維新まで存続した。

城郭構造は連郭式山城。

本丸に築かれた天守は三層四階、三階よりも四階を大きく張り出した桃山風南蛮造りだったが、元和元年(1615年)の徳川幕府の一国一城令により天守は築城後 7年で取り壊され、山上の建物や石垣も廃却された。
現在の天守は複合式望楼型四層六階、昭和37年(1962年)、市内を眺望できるよう東側へ約50メートル位置を変えて鉄筋コンクリート造りでに再興された。

旧天守台は、平成 6年(1994年)の発掘調査当初は巨石や栗石(ぐりいし)が小山のようになっていたが、平成 7年(1995年)から平成 8年(1996年)にかけ、城郭内では最も古い粗割石(そわりいし)による古式穴太積 (こしきあのうづみ) で復元された。


御土居(おどい)=岩国へ移封された初代岩国藩主の吉川広家は、慶長 7年(1602年)に日常の居館である御土居を横山の麓に、慶長13年(1608年)に戦争の際に使用する要害(岩国城)を山上に築いた。元和元年(1615年)の一国一城令によって山上の要害は廃却されたが、御土居は岩国政治の拠点として明治の廃藩まで残った。

錦帯橋(きんたいきょう)=寛文13年(1673年)、岩国藩主の吉川広嘉によって架けられた錦川に架けられた木造橋。その後、流失と再建を繰り返しながら、2001年からの「平成の架替事業」により現在の姿へと生まれ変わった。全長約193メートルにも及ぶ、木造5連アーチの錦帯橋は、周辺の景色と見事に調和し、唯一無二の景観を誇る。大正11年(1922年)、国の名勝に指定された。

別名は横山城(よこやまじょう)。


明治 4年(1871年)の廃藩置県で御土居の土地は国有化され、建物は解体され払い下げられた。明治18年(1885年)には御土居跡は吉香公園(きっこうこうえん)として整備された。
吉香公園には歴代藩主をまつる吉香神社(きっこうじんじゃ)が白山神社境内から移築され、絵馬堂として錦雲閣(きんうんかく)が建てられた。また吉香公園には、旧目加田住宅、香川家長屋門、微古館など藩政時代を偲ばせる歴史的建造物が点在している。

平成18年(2006年)、日本100名城に選定された。


写真は2023年9月20日撮影。

アクセス

山口県岩国市横山 3
JR山陽本線・岩国駅~バス20分~徒歩10分

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