宇田源氏の流れを汲む近江国守護・佐々木六角氏の居城、文明 6年(1471年)ころから石垣、石塁による城づくりが進められてきた。しかし永禄11年(1568年)、観音寺城の戦いで、六角義堅(ろっかくよしたか)・義春(よしはる)父子は城を逃げ出し、廃城になったと伝えられている。
湖東平野に聳える繖山(きぬがさやま=標高433m)山上に多くの曲輪跡が残り、戦国時代の山城としては最大規模をもつ。曲輪に築かれた高石垣は、日本の城で初めて導入されたもので、安土城の先駆をなすものとされている。
もともと繖山の山上には、遅くとも平安時代には観音正寺(かんのんしょうじ)が創建されていたと伝えられている。その後、永禄年間(1558年 - 1570年)の観音寺城の改修に際に、寺域が観音寺城に取り込まれ麓に移されたが、慶長2年(1597年)に再び山頂近くに移された。江戸時代に入り西国三十三所の霊場として栄え、現在は観音寺城跡も境内地として管理している。
城郭構造は山城。城跡は国の史跡に指定されている。
建武2年(1335年)の築城当時は、観音正寺を中心とした臨戦用の砦で城郭と呼べるものではなかった。大永5年(1525年)の改修で城郭が完成していたと推定されている。
永禄11年(1568年)の観音寺城の戦いで本丸などの建造物はすべて焼失、廃城となった。
遺構は、曲輪、土塁、石垣、竪堀、虎口、堀切、井戸などが残されている。
別名は、佐々木城、鷦鷯城(さゝきのしろ)。
平成18年(2006年)、日本100名城に選定された。
写真は2023年12月6日撮影。