本丸御殿
玄関の巨大な唐破風屋根が目立つ本丸御殿、嘉永元年(1848年)、松平斉典の時代に建てられた。当時は16棟、1025坪の規模であったが、現在残る建物は本丸御殿の一部(玄関と大広間)と本丸御殿の脇に移築された家老詰所だけ。本丸御殿は川越城の他には高知城にしか現存せず貴重な遺構である。
巨大な唐破風屋根
本丸御殿玄関の巨大な唐破風屋根、銅を薄くした板で葺かれている銅板葺(どうばんぶき)。玄関は、巨大な唐破風屋根に3間の広い開口部と、8寸角の太い柱が、石高17万石の大名御殿にふさわしい威容を感じさせる。
本丸御殿(大広間)
36畳の広さを誇る座敷、来客が城主のおでましまでの間待機した部屋と考えられている。正面に見える杉戸は、建物の出入口や広縁を仕切ることなどに使用されていた。杉戸絵は、藩の御用絵師舩津蘭山が描いたもので、板地に直接描かれている。
家老詰所
家老詰所、本丸御殿に勤務していた藩の家老が詰めていた建物で、藩主は参勤交代があり、実質的な藩政は家老が行っていた。この建物は明治初期に解体され商家に再築されていたものを昭和62年に現在のところに移築したもの。写真は家老詰所の部屋から眺めた庭園の様子。
富士見櫓跡
三の丸跡地の富士見櫓があった跡地、城内で最も高い位置にあり富士山が望めたとされている。現在は樹木に覆われ富士山を望むことはできない。川越城に天守は築かれず、富士見櫓が天守の代わりになっていた。
中ノ門堀跡
西大手門側から本丸方向への敵の進入を阻むために巧みに配されていた中ノ門掘の跡。松平信綱によって造られたもので、平成20年(2008年)より川越市による公園整備で復元された。本丸御殿から西側に 300mほど先の住宅地にある。
城下町(蔵造りの町並み)
城下町として栄えた川越、 明治26年の川越大火からの復興にあたり、伝統的な耐火建築である土蔵造りを競って採用、黒漆喰塗り込めの蔵の連なる町並が出現した。その一部が現在も小江戸と呼ばれる城下町としての面影を残している。
城下町(時の鐘)
蔵造りの町並みの一角にそびえ立つ「時の鐘」、現在の鐘楼は明治26年の川越大火の翌年に再建されたもので、高さ16mほど。再建された当時から、暮らしに欠かせない「時」を告げ、現在も1日に4回(午前6時・正午・午後3時・午後6時)、鐘の音を響かせている。