室町時代応永12年(1405年)、尾張国の守護職であった斯波義重により、守護所であった下津城の別郭として建てられたのが清州城の始まりとされている。弘治元年(1555年)に織田信長が那古野城(なごやじょう)から入城、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いに勝利し、天下統一への第一歩を踏み出した。
本能寺の変でたおれた信長の跡目を決める清州会議の後、城主となった次男(信雄)によって改修された清州城は、天守を備えた東西1.6km、南北2.8kmにも及ぶ巨大な郭域となった。その後城主は、織田家から豊臣秀次、福島正則と移り、天下分け目の関ヶ原の戦いでは、東軍の最前線の城として重要な軍事拠点となった。
清州会議
天正10年(1582年)、織田家の後継者および遺領の配分を決めるため清州城で開かれた会議。集まった織田家家臣は柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人。信長の嫡孫である三法師が織田家家督を継ぐこととなった。
清州越し(きよすごし)
尾張国の中心は清洲であったが、徳川家康の命により慶長17年(1612年)頃から元和2年(1616年)ころまでに行われた清洲から名古屋への都市の移転。名古屋城の築城により清須城は廃城となり、建物や石垣などは解体され名古屋城の資材となった。名古屋城に移された西北隅櫓は清洲城の遺構として知られている。
城郭構造は平城。
現在の天守は、平成元年(1989年)に旧・清洲町の町制100周年を記念して、清洲城跡に隣接する「清洲地域文化広場」内に建設された鉄筋コンクリート造の模擬天守。
清洲古城跡公園には、五条川の護岸工事の際に発掘された当時の本丸石垣の一部が移設復元されている。
別名は清須城。
徳川家康の命により慶長17年(1612年)頃から元和2年(1616年)ころまでに行われた「清州越し」で廃城になった。本丸天守台跡などは尾張藩が清洲城址として保存、大正11年(1922年)に「清洲古城跡公園」として整備された。しかし明治19年(1886年)になって城跡を貫く形で東海道本線が走り、昭和38年(1963年)には東海道新幹線が走り、城跡は鉄道によって分断されてしまった。鉄道の南部は「清洲公園」として整備され市民の憩いの場になっている。
写真は2020年1月26日 撮影。