現在の甲府市中心部の一条小山に築かれたのが始まり。天正10年(1582年)に武田家が滅亡すると、豊臣秀吉政権下で再整備され、豊臣秀勝、加藤光泰を経て、慶長5年(1600年)ごろに浅野長政(五奉行)により完成した。関ヶ原の戦いの後は、徳川一門によって支配された。徳川綱吉の御家人であった柳沢吉保が城主となった際、城の拡張と修築が行われ、城下も整備された。その後、幕府の直轄地になった。
城郭構造は梯郭式平山城。城跡は国の史跡に指定されている。
天守が存在していたかどうかは不明。天守台だけ現存、天守台の野面積み石垣には当時の高い石垣築造技術が見られる。
遺構としては、石垣、堀などが残る。
再建建造物は、発掘調査をもとに、 平成8年(1996年)に鍛冶曲輪と楽屋曲輪をつなぐ鍛冶曲輪門(かじくるわもん)、 平成11年(1999年)に鍛冶曲輪と稲荷曲輪をつなぐ稲荷曲輪門(いなりくるわもん)、 平成11年(1999年)に屋形曲輪と二ノ丸をつなぐ内松陰門(うちまつかげもん)、 平成16年(2004年)に稲荷櫓(いなりやぐら)、 平成25年(2013年)に本丸南側に位置する鉄門(くろがねもん)、が再建された。
別名は、鶴が羽根を広げたような姿から舞鶴城、立地が一条小山であったから一条小山城。
明治 6年(1873年)の廃城令で、軍用地として残す存城処分となり陸軍が使用することになり、多くの建物が撤去された。明治 9年(1876年)に勧業試験場が設置され葡萄等が栽培され、明治10年(1877年)には葡萄酒醸造所が設置された。
甲府城跡は鉄道の開通により分断され、その内城(内堀の内側)の南側は明治37年(1904年)から舞鶴城公園として市民に一般公開されている。
平成18年(2006年)、日本100名城に選定された。
2024年10月2日訪問