戦国時代の永正年間(1504-1520年)、小笠原氏が林城(はやしじょう)を築城し、その支城の一つとして築いた深志城が松本城のはじまり。天正10年(1582年)、小笠原貞慶が旧領を回復して城下町の整備に当たり、松本城に改称。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の後、小笠原氏にかわって石川数正が松本城に入り近世城郭の普請と城下町づくりに着手、その後城主になった松平直正が天守に辰巳附櫓、月見櫓を増築した。
城郭構造は梯郭式輪郭式平城。城跡は国の史跡に指定されている。
現在の天守は連結複合式層塔型五重六階、連結式天守(天守と乾小天守と渡櫓)と複合式天守(天守と辰巳附櫓と月見櫓)の 2つの形式を合わせた連結複合式天守。
現存する五重天守は松本城と姫路城の 2基のみで、松本城の五重天守は日本最古。江戸時代以前に建造された天守が残る現存12天守の一つ。
主な遺構は、天守群、二の丸土蔵、本丸、二の丸、石垣、土塁、堀など。
江戸時代以前から現存する天守、乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓の5棟は国宝に指定されている(天守が国宝に指定されている 5城のうちの一つ)。旧大手門枡形は明治政府の廃城令で取り壊されたが、そのうちの薬医門は安曇野市の青柳家に移築され現存している。
二ノ丸の横矢掛のための屏風塀(びょうぶべい)、内堀を区切る足駄塀(あしだべい=木製)は幕末まで残っていた。足駄塀は有事の際は塀を倒して浮き橋として埋門(うずみもん)からの出撃や退去に用いられたと考えられる。
再建整備された建造物は、本丸の黒門(高麗門と櫓門からなる枡形門と袖塀)、二の丸の太鼓門(高麗門と櫓門からなる枡形門)が復元整備された。
別名は、この地域が深志と呼ばれていたので深志城(ふかしじょう)。烏城(からすじょう)と呼ばれることもあるが松本城管理事務所は歴史的な文献に存在しないとして否定している。
明治政府の廃城令で天守は競売にかけられたが、地元有志の尽力により買い戻され、その後の明治の大修理を経て保存された。
平成18年(2006年)、日本100名城に選定された。日本100名城スタンプは松本城管理事務所に置かれている。
2022年5月19日訪問
天守は競売にかけられたが、地元有志の尽力により買い戻された... というところに魅せられて訪問。その時は「天守だけ」のという印象でしたが、その後勉強してみると、二の丸~本丸が遺構として保存されていることがわかりました。あの時代でもやれることがあったんだ、と考えさせられました。