天下統一を果たした豊臣秀吉が、天正19年(1591年)、朝鮮出兵のために築いた梯郭式平山城。 文禄元年(1592年)の開戦から 7年の間、朝鮮出兵の拠点となった。
城の面積は約17ヘクタールにおよび、本丸、二の丸、三の丸、山里曲輪などを配し、本丸北西隅に望楼型五重七階の天守が築かれた。周囲には130以上の諸大名の陣屋が置かれ、全国から20万人を超える人々が集ったとされている。
慶長 3年(1598年)、秀吉の死で諸大名が撤退し、名護屋城はその役割を終え廃城になった。名護屋城の建物は唐津城に移築されたり、仙台青葉城の大手門に移築されたりしたと伝えられている。その後、残っていた石垣は一揆の拠点なることを恐れ破壊されたと考えられている。
城郭構造は梯郭式平山城。城跡は23箇所の陣跡とともに国の特別史跡に指定されている。
天守は望楼型五重七階、本丸北西隅に築かれた。城跡からは金箔を施した瓦が出土していて、天守に葺かれていたものと考えられている。
当時の建造物、再建建造物はない。
遺構としては、石垣、空堀、井戸などが残されている。
別名は、名護屋御旅館、名護屋御殿。
慶長 3年(1598年)、豊臣秀吉の死で諸大名が撤退し廃城になった。
平成18年(2006年)、日本100名城に選定された。
写真は2023年12月21日撮影。