西相模に威をふるった大森氏の居城が前身。その後、北条早雲が入城し築城。北条氏5代96年の間、関八州支配の拠点として巨城が築かれた。豊臣秀吉の大群に攻められ開城。江戸時代になって、徳川家康の家臣・大久保忠世を城主に迎え、ついで阿部氏、稲葉氏、再び大久保氏が入り11万3000石の居城として栄えた。
土塁と空堀で囲まれた総構(そうがまえ)は城下町を囲む延長9kmにおよぶ。石垣が築かれる以前は、堀と土塁で城下を取り囲む戦国最大規模の中世城郭(土の城)であった。
城郭構造は平山城。城跡と総構の一部は国の史跡に指定されている。
初代天守は天正8年(1580年)、独立式望楼型で建てられたが寛永10年(1633年)の駿豆相大地震により倒壊。
2代目天守は寛永10年(1633年)、幕府の直営により再建されたが元禄16年(1703年)の南関東駿豆地震に伴う火災で焼失。
3代目天守は宝永3年(1706年)、複合式層塔型三重四階で再建され、明治3年(1870年)の廃城まで存続し現在の復興天守のモデルになった。
現在の天守は複合式層塔型三層四階(内部は地上四階地下一階)、本瓦葺、昭和35年(1960年)に鉄筋コンクリート造りで復興。天守に付櫓、渡櫓を付した複合式天守で、最上階の高欄付き廻縁は復興に際して新たに付けられた。
再建された建造物は、昭和46年(1971年)に常盤木門、平成9年(1997年)に銅門、平成21年(2009年)に馬出門が再建された。
明治3年(1870年)に廃城となり天守をはじめほとんどの建造物は払い下げられ解体された。 明治6年(1873年)の廃城令により二の丸と山地部の一部が陸軍省所轄となり、明治23年(1890年)に元藩主大久保氏に払い下げられた。大正9年(1920年)には熱海線(東海道線)の線路により本丸・二の丸と八幡山が分断され、大正12年(1923年)の関東大震災では城内に建てられた御用邸や残っていた石垣はほぼ全壊した。
その後、本丸を中心に城址公園として整備され、小田原市は天守の高さを基準とした高度規制で歴史景観を次代に受け継いでいくこととしている。
平成18年(2006年)、日本100名城に選定された。
写真は2016年9月10日撮影。