宇喜多秀家が豊臣秀吉の指導を受けて築城、 8年の歳月を費やして慶長 2年(1597年)に完成した。西向きの城構えのため、旭川を城の東背後を流れるように改修し、天然の外堀に活用している。
城郭構造は梯郭式平山城。城跡は国の史跡に、岡山後楽園は国の特別名勝に指定されている。
初代天守は、慶長 2年(1597年)に建造された初期望楼型三重六階、金箔瓦葺(きんぱくかわらぶき)。
現在の天守は、昭和41年(1966年)に鉄骨鉄筋コンクリート造りで復興された(外観復元)。
現存建造物は、本丸中段に残る月見櫓(つきみやぐら)、西の丸跡(路面電車城下駅すぐ)に残る西手櫓(にしてやぐら)の2棟、いずれも国の重要文化財に指定されている。
再建建造物は、天守、廊下門(ろうかもん)、不明門(あかずのもん)、六十一雁木上門(ろくじゅういちがんきうえもん)。
別名は、外観が黒いことから烏城(うじょう)、金烏城(きんうじょう)。
明治6年(1873年)の廃城令で軍用地として残す存城処分となり、建物は順次取り壊され、堀は埋め立てられた。 明治23年(1890年)、旧藩主池田章政に払い下げられた後、池田家は岡山県に提供し、明治29年(1896年)には本丸跡に県立岡山中学校が建てられた。こうして昭和初期頃には城跡と見受けられるのは本丸を残すのみとなり、昭和20年(1945年)の岡山空襲で天守、石山門が焼失した。
平成18年(2006年)、日本100名城に選定された。
写真は2017年9月12日撮影。