慶長 2年(1597年)、福原直高が府内に入封後、築城を開始。慶長 3年(1598年)望楼型三重天守が築かれた。関ヶ原の戦い後、竹中重利が大改修し、天守は層塔型へと改められた。城内の建造物は 寛保 3年(1743年)の 大火でほとんどが焼失した。
北方は海、東方は大分川に面した縄張りで、本丸、二ノ丸、山里丸、北の丸が梯郭式に配されている。
府内城という名称は、かつて豊後の戦国大名大友氏が守護所を置いていた地が「府内」と呼ばれていたことに由来する。
城郭構造は梯郭式平城。城跡は大分市の史跡に指定されている。
天守は、慶長 7年(1602年)に四重の天守が築かれたが、寛保 3年(1743年)の大火で焼失、再建されていない。
現存建造物は、宗門櫓、人質櫓の 2棟、いずれも大分県の重要文化財に指定されている。
遺構は、石垣、土塀、堀、櫓跡、天守台など、いずれも大分県の史跡に指定されている。。
再建建造物としては、大手門、西丸南西櫓、着着櫓、廊下橋。昭和40年(1965年)に再建された。
別名は、大分城(おおいたじょう)、荷揚城(にあげじょう)、白雉城(はくちじょう)。
明治初期に本丸、東丸、西丸の建造物以外は破却され大分県庁が置かれた。大正8年(1919年)には 県庁の拡張工事のため内堀の一部が埋め立てられた。先の大戦では米軍の空襲で大手門、櫓などが焼失した。現在、城跡は大分城址公園となっている。
平成18年(2006年)、日本100名城に選定された。
写真は2023年12月22日 撮影。