鹿島台地西端の川や急崖に囲まれた要害の地に、地元豪族の千葉氏が中世の城郭を築いたのが始り。慶長15年(1610年)、土井利勝が入封して改築、石垣を用いず全て土塁で曲輪、堀、割などを築造した。以降、江戸の背後を固める城として代々譜代大名の居城となった。 江戸時代には佐倉藩の藩庁が置かれた
城郭構造は輪郭式平山城。城跡は佐倉市の史跡に指定されている。
天守は、元和 2年(1616年)には独立式層塔型三重四階の御三階櫓があったとされるが、文化10年(1813年)に盗賊の失火により焼失、再建されていない。
遺構としては、天守台跡、堀、土塁、角馬出跡、出丸跡など。
本丸、二の丸、三の丸、その外縁部の椎木曲輪、天神曲輪などの多くの郭の形状が広大かつ良好に残る。また、巨大な角馬出しや土塁、水堀に守られた西出丸、南出丸の形状なども良好に残っている。
建造物としては、城外へ移築されていた薬医門が西出丸跡の近くに移築保存されている。
再建された建造物はない。
別名は鹿島城。
明治政府の廃城令により存城処分となり、建物は撤去され、陸軍の部隊が置かれた。城跡は、昭和39年(1964年)、佐倉城址公園として一般公開された。
平成18年(2006年)、日本100名城に選定された。
2024年5月15日訪問。