豊臣秀吉の四国制圧の後、1587年(天正15年)、讃岐1国の領主となった生駒親正によって築かれた平城。現在見られる遺構は、江戸初期に徳川光圀の兄で常陸国から12万石で高松に移封された松平頼重によって改修されたもの。
本丸を中心に二の丸、三の丸、北の丸、東の丸、桜の馬場、西の丸が時計回りに配置され、堀は3重にが廻らされていた。 城壁が瀬戸内海に面し、外濠、中濠、内濠のすべてに海水が引き込まれ、城内に軍船が出入りできるようになっていた。近世城郭の海城(うみじろ)としては最初にして最大で、今治城、中津城と並んで三大水城といわれている。海水を堀に入れ込んだ城は今治城などがあるが、完全に海水なのは高松城だけ。
城郭構造は輪郭式平城。城跡は国の史跡に指定されている。
天守は独立式層塔型三重四階地下一階、四国最大規模で四階平面が三階平面より大きい唐造りで、一重目も天守台から外には張り出させて石落しを設けていたと考えられている。
明治17年(1884年)に老朽化により解体され、それ以降は再建されていない。平成17年(2005年)からの天守台の修復工事で地下1階部分から当時のままの58個の礎石が確認された。
現存する北の丸月見櫓(つきみやぐら) 、北の丸水手御門(みずのてごもん)、北の丸渡櫓、旧東の丸艮櫓(うしとらやぐら)は国の重要文化財に指定されている。
※現在の艮櫓は昭和40年(1965年)に東の丸から太鼓櫓跡に移築されたもの。
別名は付近の海が「玉藻の浦」と呼ばれていたことから玉藻城(たまもじょう)。
明治2年(1869年)版籍奉還により廃城、政府の所管になっていたが、その後城跡の一部が松平家に払い下げになった。後に高松市が譲り受け、昭和30年(1955年)に高松市立玉藻公園として一般公開された。
城跡の周辺は、明治以降の都市化の波に呑まれ、現在では海側に新しい道路(水城通り)が通り、内堀と中堀の一部を除いて埋め立てられてしまっている。
平成18年(2006年)、日本100名城に選定された。
写真は2019年4月2日撮影。