天文14年(1545年)、武田信玄が三峰川と藤沢川の段丘上にあった高遠城を攻略、大規模な改修を行った。その後は武田氏の軍事拠点として重きをなしたが、天正10年(1582年)、武田勝頼の実弟である仁科盛信(にしなもりのぶ)が城主のとき、織田信長軍に攻められ落城した。織田勢は伊那方面からも甲斐へ侵攻し、武田氏は滅亡した。江戸時代になると高遠藩の藩庁となり、京極氏、保科氏、鳥居氏と城主が交代した。元禄4年(1691年)には内藤清枚が3万3千石で入封、以後、内藤氏8代の居城として明治維新を迎えた。
三峰川の断崖を背に本丸と、それを囲むように二の丸、三の丸が配され、曲輪はすべて空堀で区切られた堅固な構えの戦国時代の信玄流築城の面影をとどめていたが、明治時代に一部が埋め立てられてしまった。
城郭構造は平山城。城跡は国の史跡に指定されている。
本丸には、藩主の居住空間と藩政を執行う本丸御殿があり、天守はなかった(二階建ての櫓が3棟あり、遠くを望むことができた)。
主要な城門は枡形虎口形式の櫓門で、長大な長塀に囲まれた近世城郭であった。大手門は当初、城の東側にあったが西側に移され、城下町も同様に、鉾持神社などがある城郭の西に移された。
三ノ丸には、空あき屋敷を利用して藩校・進徳館(しんとくかん)が開かれた。進徳館の建物は、城内に唯一残された江戸時代の建造物。
遺構としては、石垣、土塁、空堀、櫓跡などが残る。
別名は兜山城(かぶとやまじょう)。
明治政府の廃城令で、城内の建造物はすべて取り壊された。大手、二の丸、本丸、搦手の4つの櫓門は競売にかけられ民家や寺院の門として払い下げられた。 大手門は、昭和29年(1954年)に現在地に移築されたが、その形は切り詰められ当時の姿ではない。 問屋門(とんやもん)は、昭和20年代に問屋役所の建物が取り壊され城下に移されていたが、昭和23年(1948年)に現在地に移築された。 本丸には城主の権威の象徴たる天守閣はなく、平屋造の御殿や櫓、土蔵などがあった。本丸御殿は政庁であるとともに藩主住居も兼ねていたが、廃城時、城内の建物は取り壊されてしまった。
明治 8年(1875年)、政府が進めていた公園づくりを受け、高遠城跡の公園化が決まり、旧藩士らが馬場の桜を城址に移植、現在は地域の固有種「タカトオコヒガンザクラ」が1,500本が植えられている。 高遠城址公園の桜は、ソメイヨシノの弘前公園、山ざくらの吉野山と並ぶ日本三大桜名所のひとつ、「天下第一の桜」と呼ばれている。
平成 2年(1990年)、さくら名所百選に選定された。
平成18年(2006年)、日本100名城に選定された。日本100名城スタンプは高遠町歴史博物館入口に置かれている。
2025年4月15日訪問
桜の名所として有名になっていて、大型バスがひっきりなしに発着、外国人観光客も多く見られました。城跡を元のお城に戻すのではなく、お城とは関係ない建物を集め、地域の観光スポットにするという利用もありかな?と思いました。