永正16年(1519年)、甲斐源氏の流れを汲む武田信虎が築いた館が始まり。武田氏の本拠で、信虎、信玄、勝頼の武田家当主の館として使われた。天正10年(1582年)の武田氏滅亡後は、織田氏、徳川氏、豊臣氏によって甲斐国の統治拠点として再整備され、甲府城が築城されるまで使用された。館の回りには、家臣の屋敷が建てられ、南方一帯には格子状に整備された道路に沿って、城下町が開けていた。
館は三方を山に囲まれた要害の地に築かれ、水堀と土塁に囲まれた一辺200mの方形の館跡は、鎌倉時代の地方武士の舘の姿を今に伝える貴重な遺構である。
舘は主郭(東曲輪と中曲輪)、西曲輪、北曲輪などからなり、大手東側には土塁や三ケ月堀、厩跡、土橋、石塁などが発掘されている。
城郭構造は連郭式平城。城址は国の史跡に指定されている。
主郭の北西側隅の天守台は武田氏滅亡後に築かれた。現在は武田神社の境内地で立入できず、その姿をうかがうことはできない。天守が建造されたかどうかは不明。
遺構としては、石垣、土塁、水堀、空堀、土橋、虎口、井戸、天守台、馬出しなど。
別名は、躑躅ヶ崎の西方にあることから躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)。
大正8年(1919年)、館の主郭に武田神社が創建された。
平成18年(2006年)、日本100名城に選定された。
2024年10月2日訪問