慶長元年(1596年)、藤堂高虎が中世期にあった板島丸串城(いたじままるぐしじょう)の跡に築城したのが始まり。その後、富田氏を経て伊達秀宗が入り、明治まで伊達家の居城となった。
宇和島城は、リアス式海岸となる宇和海が最も深く入り込んだ沿岸部に位置し、城の形は丘陵の形に従って不均等五角形となり、北面と西面が海に面し、他の三辺は海から接続する水堀に囲まれた海城であった。
城郭構造は梯郭式平山城。城跡は国の史跡に指定されている。
当初の天守は複合式望楼型三重三階であったが、現在の天守は独立式層塔型三重三階、寛文11年(1671年)に修築の名目で建て替えられた。江戸時代以前に建造された天守が残る現存12天守の一つ。
遺構は、国の重要文化財に指定されている天守や上り立ち門(のぼりたちもん)、石垣などが残されている。
別名は、均整のとれた美しさから鶴島城(つるしまじょう)、中世期にあった板島丸串城の跡に築かれたことから板島城(いたじまじょう)、丸串城(まるぐしじょう)。
明治政府の廃城令で櫓や城門などが取り壊された。正面口にあった追手門は、昭和20年(1945年)まで現存していたが、米軍の空襲により焼失した。昭和24年(1949年)、伊達家が天守と城山の大半を宇和島市に寄贈、城山公園として整備された。
平成18年(2006年)、日本100名城に選定された。日本100名城スタンプは天守に置かれている。
2015年12月10日訪問
宇和島城のある城山は、300年以上人為的な伐採や火災を免れてきたため 約400種の植物が生い茂るという.....あいにくの雨模様ではあったが、写真撮影にはよかったようです。