紀元前5世紀から紀元後3世紀までの弥生時代は、稲作の文化が始まり、定住文化が根付いた。
吉野ヶ里遺跡は、九州北部の脊振山地(せふりさんち)南麓から平野部へ伸びた帯状の段丘に位置し、 弥生時代後期には外壕と内壕の二重の環濠ができ、V字型に深く掘られた総延長約2.5kmの外壕が囲んでいる範囲は約40ヘクタールにもなる。
壕の内外には土塁や木柵、逆茂木(さかもぎ)など敵の侵入を防ぐ柵が設けられていた。また環濠内には、見張りや威嚇のための物見櫓が置かれていた。
大きな外壕の中に内壕が2つあり、その中に建物がまとまって立てられている。北の集落は北内郭(きたないかく)、南の集落は南内郭(みなみないかく)と呼ばれている。
城郭構造は平城(環濠集落)。環濠集落跡は国の特別史跡に指定されている。
奈良・平安の律令制時代には、神埼郡の役所的な性格の建物があったと考えられている。
1980年代に入って、佐賀県は企業誘致に際し、文化財発掘のための事前調査を開始、昭和61年(1986年)の本格調査で、約59ヘクタールもの広範囲に遺跡が広がっていることが判明、県は工場団地計画を縮小した。
平成13年(2001年)からは、遺跡を損なわないように盛土によって保存し、その上に建物を復元したり植樹を行い、国営歴史公園として整備され一般公開されている。
平成18年(2006年)、日本100名城に選定された。
写真は2023年12月20日撮影。