
古代都市空間
推古天皇が飛鳥に豊浦宮を開いてから平城京に遷都されるまでの間、多くの天皇が宮を置いた飛鳥の地。中央奥は大和三山の一つである香具山(かぐやま)、左奥の小高い山は耳成山(みみなしやま)、その手前に中国をモデルとした都城制、条坊制を取り入れた藤原京(ふじわらきょう)が造られた。写真は飛鳥の地のほぼ中央にある甘樫丘(あまかしのおか)から撮影した現在の飛鳥の地の様子。

酒船石遺跡(さかふねいしいせき)
飛鳥宮跡の北東の丘陵にある位置している祭祀遺跡。丘陵の周りを囲んだ日本最古の石垣、丘陵の上の酒船石、丘陵裾には亀形をした石槽や地下からの湧き水を地上へ導水する湧水施設がある。2000年(平成12年)の調査で、亀形石造物、小判形石造物、導水施設が新たに発見された。写真は亀形石造物周辺の遺跡群。

キトラ古墳(キトラこふん)
7世紀後半から8世紀初頭に築造された古墳。墳丘は何層にも重ねて築造されており(版築技法)、中国・朝鮮半島の土木技術によるものと考えられている。石室内には四神、十二支、天文図、日月の壁画が描かれている。特に、屋根型の天井に描かれている天文図は、東アジア現存最古の中国式天文図で、中国や朝鮮半島の高い天文学や思想を受け継いだものとされ、渡来系の技術者集団が深く関与していたと考えられている。

牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)
古墳文化の歴史の終末にあたる飛鳥時代、古墳は権力の象徴であった巨大な前方後円墳から、中国文化の影響を受けた方墳、天皇を中心とする世界観を視覚的に表現した八角墳などに変化した。八角墳という形態は、天皇を頂点とした中央集権国家の確立を目指し、東アジアで他に例を見ない日本独自に創出されたもので「天皇陵を頂点とする新たな権威」が墳墓によって示されている。
写真は復元整備された牽牛子塚古墳、墳丘は凝灰岩の切石で覆われている。

飛鳥寺跡(あすかでらあと)
596年(推古天皇4年)に建立されたわが国初の本格的な仏教寺院、東アジアからの渡来人や中国から帰国した留学生などによる技術導入によって建立された瓦葺礎石建物。金堂前の礎石跡は創建時のもので、飛鳥様式の伽藍配置を伝えている(建物は落雷で焼失、現在の建物は江戸時代に再建された)。本尊はわが国最古の仏像である飛鳥大仏(銅造釈迦如来坐像)、幾度かの火災により損傷を受けているものの創建時の場所に鎮座している。

飛鳥宮跡(あすかきゅうせき)
これまで伝飛鳥板蓋(でん あすかいたぶきのみやあと)とされてきた宮跡、1959年からの発掘調査により、歴代天皇の宮殿(飛鳥岡本宮、飛鳥板蓋宮、後飛鳥岡本宮、飛鳥浄御原宮)が同じ場所で営まれていたことが判明、2016年に飛鳥宮跡(あすかきゅうせき)と変更された。 現在復元されている石敷広場や大井戸跡は上層の飛鳥浄御原宮のものとされている。建物配置から公的な儀礼、政務の場と私的な居住空間が一体となっていたことが分かっている。645年(大化 元年)の乙巳の変(いっしのへん)など、歴史の舞台になった。

藤原京跡(ふじわらきょうあと)
中国の都城にならい、日本で初めて建造された本格的都城。規模は大和三山を含む約 5km四方に及び、その中心部に高さ5mほどの塀で囲まれた約 1km四方の藤原宮(ふじわらきゅう)が置かれていた。藤原京の区画に役所や寺院が配置され、官人は位に応じた広さの宅地を与えられた。後の平城京や平安京の原型ともなり、平城京への遷都に際しては主要な建物は解体されて移築された。
写真は、藤原宮の南大門(朱雀門)から南に延びる朱雀大路跡(すざくおおじあと)から撮影した藤原京跡(左後方の小高い山は大和三山の一つである耳成山)。

藤原宮跡(ふじわらきゅうせき)
広さ約 1km四方の藤原宮、高さ5mほどの塀で囲まれ、その中心部に内裏、大極殿、朝堂院が並んでいた。飛鳥の宮殿はすべて掘立柱建築だったが、藤原宮では初めて中国風の瓦葺礎石建築が採用された。その東西には二官八省の役所群がいくつものブロックを形成していた。飛鳥の宮殿ではその周辺にあった官衙(かんが=役所)群が藤原宮ではひとつにまとめられた。
写真は大極殿院南門跡の様子、礎石と柱の跡が復元構築物として並べられている。