長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産(ながさきとあまくさちほうのせんぷくきりしたんかんれんいさん)は、
構成資産は、キリシタンが潜伏する契機となった原城址、潜伏キリシタンが信仰を維持するため他の宗教と共生してきた集落、信仰組織を維持するため移住した離島部の集落、潜伏キリシタンの伝統が終焉する契機となった大浦天主堂など長崎県と熊本県に点在する次の12資産。
長崎県登録地域の面積は、構成資産 5,566.55ヘクタール、それを保護する緩衝地帯 12,252.52ヘクタール。
フランス人神父フューレ、プチジャンの設計により、外国人居留地に在留外国人の礼拝堂として建立された(1864年竣工)。正式名称は日本26聖殉教者天主堂。
潜伏キリシタンの存在を意識していたのか、正面には日本語で「天主堂」という文字を掲げ、当時は「フランス寺」と呼ばれていた。結果的には、
キリシタン禁教令に屈せず260年にわたり信仰を守り続けてきた信徒発見の舞台になった。
創建時は3本の塔を持つゴシック風の構造ながら正面中央の壁面はバロック風であったが、その後の増改築で外壁を煉瓦造にするなど完全にゴシック風の建物に姿を変えた。
昭和20年(1945年)8月9日に投下された原爆により屋根、正面大門扉、ステンドグラスなど甚大な被害を受けたが、爆心地から離れていたことから倒壊や焼失は免れた。
わが国に現存する教会建築では最古、1953年(昭和28年)に国宝に指定された。
登録されたのは、ほとんどが潜伏キリシタンが隠れ住んだ集落で、そこに建立されていた教会堂は解禁後の建物との理由で含まれていせん。長崎のキリスト教関連遺産は、もともとは「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として、解禁後に潜伏キリシタン自らの手で建立した教会堂を中心にしキリスト教関連遺産の登録を目指していたものです。ユネスコの諮問機関から「禁教の歴史的文脈に焦点を当てるべきだ」との指摘があり、教会堂を中心にした登録が見直された経緯がありました。
その結果「潜伏キリシタンにより育まれた独特な宗教的伝統」がことさら評価され、その物証としては教会堂ではなく潜伏キリシタンが隠れ住んだ集落が当てられました。
しかし、潜伏キリシタンが遺したものは集落ではなくキリスト教への信仰であって、それが解禁後に潜伏キリシタン自らの手で建立した教会堂に凝縮されているのではないでしょうか。信仰を守りぬいた証しとして建立した教会堂、地元の人々が大切にしてきた教会堂が登録されてしかるべきだと思うのですが.....。世界遺産への登録のために、イコモスの指摘に従った政府の判断は良かったのでしょうか。地元自治体や地元の人々の意向が無視されてしまった世界遺産と言わざるを得ません。
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産インフォメーションセンター
教会堂の見学には事前連絡が必要(大浦天主堂を除く)。