佐渡島の金山(さどのきんざん)、
などが評価され、2024年、文化遺産に登録された。
構成資産は次の2資産
佐渡島の金山における17世紀前半の金の生産量は世界の10%をしめ、最高純度は99.54%、世界有数の量と質の金を生産した。佐渡島の金山は17世紀における世界最大の金生産地であった。
西欧の進出によって世界中の鉱山で機械化が進む16~19世紀において、鎖国政策で海外からの技術の導入が限られるなか、伝統的手工業による生産技術とそれに適した生産体制を各鉱山の特性に応じて進化させた。
西三川周辺に点在する砂金が採れる山々の総称、平安時代の「今昔物語集」に登場したと伝わる佐渡最古の砂金山。
当初は、山間を流れる川に砂金を含む土砂を運んで押し流しすくって採集してきた(川浚い)が、江戸時代になると溜池と水路を造り、水路の途中は雛壇状にし、それぞれの段で砂金すくい取った(大流し)。集落周辺の山の各所に堤や水路、砂金を採るために山を掘り崩した痕跡が良好に残されている。
なお、砂金を採り尽くし使われなくなった水路の一部は棚田に、溜池も農業用に転用された。この二次産業(鉱業)から一次産業(農地)への転換は自然回帰的であるとして海外からも注目されている。
鶴子銀山は、天文11年(1542年)に発見されたとされる佐渡最大の銀山で、600カ所以上の採掘の跡が確認され、時代の異なるさまざまな掘り方を見ることができる。鶴子銀山では、16世紀中頃に地表近くの鉱石を掘り採る「露頭掘り」に始まり、その後、石見銀山から来た山師によって「坑道掘り」が伝えられ、複数の鉱脈の同時採掘や坑内の排水が可能となり、銀の産出量が飛躍的に増加した。
相川金銀山は、江戸時代に本格的な開発が始まり、大量に生産された金や銀は貨幣として利用され、国の財政を大きく支えた。
また、採掘から小判製造までが同じ場所で行われていた鉱山は国内でも佐渡だけであり、その工程を鮮やかに描いた鉱山絵巻が100点以上も残っている。鶴子銀山の発見・開発は、島内の鉱山開発に大きな影響をあたえ、相川で大規模な金銀鉱脈が発見されるきっかけとなった。江戸時代を通じて金はおよそ40トン、銀はおよそ1,800トン採れ、日本最大の金銀山だった。
坑道の排水技術は、水田開発に応用され、金銀の製錬作業に使用する石臼などを作った石工は、石垣や家屋の土台に使う建築石材をはじめ、石製のすり鉢などの生活用品や石塔のほか地蔵なども作った。
また、金銀山の繁栄に伴い、国内各地から佐渡へ人々が集まったことから、各地の文化が持ち込まれまれた。
鉱山の労働から生まれた芸能である「やわらぎ」には鉱山の繁栄や坑内作業の無事を願った鉱夫たちの祈りが込められている。民謡の「佐渡おけさ」は、船乗りたちによって、九州のはんや節が佐渡へと伝わり、現在に至っている。
また、「鬼太鼓」や「文弥人形」などの芸能の他、鉱山から産出する鉄分を含んだ無名異土を利用して生み出され、佐渡の代表的な焼き物となった「無名異焼」なども鉱山と深い関わりをもっている。
登録されたのは江戸時代までに開発された鉱山関連史跡だけで、北沢浮遊選鉱場や大立竪坑、大間港など明治時代以降に整備された近代化産業遺産は含まれない。江戸時代までに開発された鉱山関連史跡に限ったのは、諮問機関の事前勧告で「江戸期より後の証拠が大部分を占める相川上町の北沢地区を資産範囲から除くこと」との指摘を政府が受け入れたことによる。
また政府は、世界遺産委員会での「鉱業採掘が行われていたすべての時期を通じた推薦資産にに関する全体の歴史を現場レベルで包括的に扱う説明・展示戦略を策定し、施設・設備等を整えること」という追加的勧告にしたがい、「朝鮮人の過酷労働を示す展示を含めた展示」を現地で実施した。
写真は2010年撮影。